シン・エヴァンゲリオンを見て
2021年3月9日 映画 感想というのもおこがましいお気持ち表明です。Chronoです。エヴァは幼少期の原体験なので感慨も一入。
あ、ネタバレ要素を多分に含むため見てない人はブラバ推奨です。
というわけで、無事見事に完結しました。してしまいました。
正直、見る前はかなりヒヤヒヤしていました。ええ。どう決着つけるのか想像も出来なかったので。
個人的な着眼点をまとめてみましたが、あくまで自己解釈の牽強付会。個々人に解釈は委ねられるべき作品だと思っていますのでこんな考え方もあるんだね程度に。
1 生きるということ
旧劇において精神崩壊したアスカで自慰するシーンがありました。アスカやレイはシンジ、ひいては視聴者の露悪的なオモチャだと言わんばかりの描写で、特に神秘的で口数の少ないレイと違って生身でむき出しの感情をぶつけるアスカで自慰するというのは酷く示唆的です。
性=嫌なものと言わんばかりの潔癖な描写は無機質で不気味で、結末としてシンジとアスカが真っ赤な世界に投げ出されて互いを拒絶しあったのも宜なるかな、と言ったところです。
ですが、今回は性を間接的に描写しながらも、それが生命礼賛に繋がっていると感じました。
旧シリーズから度々描写されているトウジとヒカリの関係は大きく進んで子供も生まれ、ケンスケとアスカは大きく距離を縮めて(ゲームではケンスケがアスカを気にしている描写もあったんでしたっけ?)それとなく肉体関係にあるようなセリフも。二人がどうなったのか気が気でならなかったので生きててよかったと劇場では胸を撫で下ろしましたとも。ミサトさんは加持さんと子供を作り、自分の意思で離れた場所で暮らしています。
そして何より決定的だったのは、アヤナミレイ(仮称)こと黒波さんの無垢な姿。オタマジャクシの泳ぐ田んぼで稲を植え、泥んこになって畑作業に勤しみ、トウジとヒカリの子のツバメと触れあう。赤子のような彼女が本当の意味で生まれ、自分の意思で命と向き合い、別れの意味を知ってなおヒカリに『さよなら(=自分の運命を受け入れた上でまた会えると信じている)』を告げたことはゲンドウの歩む道とは違ったものをシンジに見せ、前に踏み出す契機を与えたのでしょう。
2 ゲンドウとユイと
壮大な物語の契機となったのは相変わらずのゲンドウの画策でした。旧作では冷徹で利己的だった彼の歩んできた道が示唆されましたが、今作ではそれを赤裸々に語ります。エヴァでの格闘シーンも露骨なフィクション的に描写され、行き着く先は精神の世界。旧劇では捕食という形でしか寂寞と苦痛と思慕を表現できなかったシンジは、しかし周囲から注がれる感情でゲンドウを越えていくことを決意出来ました。だからこそゲンドウ『から』ATフィールドが生じ、シンジとの接触を拒んだ。
ですが結局、ゲンドウはシンジを抱き締めることを選びます。シンジのなかにいるユイこそがユイの生きた証―目的のために邁進し、ユイにまつわるもの全てを捨てて遠ざけた息子こそがユイだった皮肉とそれを受け入れて救われるゲンドウ。ゲームではサードインパクト阻止ルーとのひとつとしてゲンドウとシンジの和解が描かれていましたが、そこにたどり着くことができればあの親子はあっさり仲良くなれていたのでしょう。似た者同士ですしね。
13号機が初号機を抱擁するために四本の腕を伸ばして槍を贖罪として受け入れたのは、彼にとってありふれた幸福にたどり着いたということなのでしょう。
3 アスカ
旧作から度々報われない思いを重ねてきたアスカですが、14年間の感傷は察するに余りあります。
エヴァの呪いで老いることもなく、使徒に侵食されて命を絶えず脅かされ、そしてバックボーンすら式波シリーズとして親の愛を知らずに育った…。Qでは言葉こそきついもののある種信頼の裏返しともとれる態度(序盤で助けを求めた、13号機に乗ったシンジにキレる=DSSチョーカーによる死のリスクを理解していないから)ですし、自分を殺すくらいなら死んだ方がマシとまで言いきった相手に対してなんとも思わないほど薄情ではないです。
ただ、それでももう一緒にはいられない。14年間で老成せざるを得なかった彼女と14年眠っていたシンジとでは最早内面を共有することは叶わない。愛に飢えたアスカにとってかつてのシンジは自分を日常に引き戻してくれる相手であったとしても、時間は戻らない。
だから好きだったと過去形で打ち明け、シンジもそれを受け入れます。完全に理解することはできなくても受け入れる、大人びたシンジに砂浜でバカと呟く彼女は旧劇とは対照的でした。
4 エヴァを捨てて現実へと近づく
第3新東京市の模型のなかでの格闘、ミサトさんの家での格闘と蹴り出されて壊れてしまった特撮セット、別れの度に降りるシャッター、そして綾波レイに別れを告げるときの空虚さを滲ませた片付けられた撮影舞台。
個人的には、THE・ビッグオーの2ndシーズンを思い出します。パラダイムシティという舞台セットの中で喜劇を演じ、時折メモリーという名の現実を思い返す。ビッグオーではヒロインでありパラダイムシティを観測する存在だったエンジェルを役者ロジャーが交渉で説得し、劇を続行する形で締め括られました。
しかしエヴァは、エヴァを捨てる度に現実へと近づき、そして絵コンテのような画像から迎えに来たマリと再会を果たしたあとどこか懐かしい駅の中にたどり着きます。
それが4thインパクトを乗り越えた彼らなのか、それとも全く別の世界なのか分かりません。ただ、エヴァという虚構を捨てた先にあるのは彼らにとって紛うことなき現実です。
演じられた存在として、この世を演出する存在との交渉を成功させネゴシエーターの矜持を貫いたロジャーと、大人になることで世界と向き合えたシンジ。あるべきところにたどり着いた安堵感がありました。
5 シンジとマリ
マリの正体は度々示唆されてはいましたが、明言はされませんでした。それは明確にルーツが示されたレイやアスカとは対照的。勿論掘り下げることは可能だったはずで、考えるべきは作劇としてなぜ敢えて彼女を掘り下げなかったのか?という点です。
その答えは最後のシーン詰まっていると考えています。
最後に彼女の手を引いたシンジは最初は人と関わることができない臆病な少年でした。ヤマアラシのジレンマのたとえはまさに彼の他人とのかかわり方を示すもので、エヴァという毛布にくるまって、あるいは『エヴァパイロットという無条件に他社に認めさせる資格』をどこかで盾にしていた。トウジとケンスケにしてもそうで、初めて構築した人間関係はエヴァに依存したもの。その友達の輪は決して大きくはならなかった。それは新旧共通していました。エヴァに乗ること=母親抱擁される居心地のいい空間は、使徒の恐怖を和らげるだけでなく現実から体よく逃げることも可能にしたのです。
だからこそエヴァを失った旧作ではテレビ版では一方的に、空虚さを感じるほど祝福されながらも現実ではアスカの首を絞めて盛大に拒絶され、Qではエヴァで世界を救うことに固執した結果親友との別れをもたらします。
ですが、シンエヴァで突きつけられた現実は無慈悲でも暖かく、彼がエヴァに乗らなくてもいい幸せを示してくれた。はからずも破のレイの願いは叶えられつつあったのです。
そしてゲンドウとの対話を通じて大人になった彼にとって、他人はATフィールドで拒絶する対象でもエヴァを介してしか繋がれない存在でもなくなった。エヴァを卒業する彼が隣にいることを望んだ相手は、エヴァに乗っている間に関係を構築したレイやアスカではなくエヴァから降りた後に向き合ってくれたマリでした。形式的な終わりではなく、シンジは本当の意味でエヴァを必要としなくなった。だからエヴァを介してしか他人と繋がれないといったレイやエヴァで他人に認めてもらうことが原動力のアスカと結ばれることはないんです、(個人的にはレイ派なので残念ですが)。そして最後、プラットホームの向こう側のレイ、アスカ、カヲルを振り切りアグレッシブなマリの手を引いて駆け出すことができたんでしょう。
だからマリについての詳しいバックボーンを解説する必要はないんです。別に親しい友人や家族についてだって、あらゆるところの本音や過去を一つになって共有したいわけではないでしょう?今隣にいてくれる、手を握ってくれる、握り返してくれる、時々甘えて甘えさせてくれる、そしてそういうことが出来る相手だとお互いが理解している。大人になったシンジにとってはそれで十分前に進めるんです。それ以上は蛇足で、野暮なんです。
6 最後に
25年間で色々あったんだなあ、という感情が込み上げてくる今作でした。本当に。万人に楽しんでもらえるための作品ではないのに、新旧で一貫しているのは生きるということ。
彼らにもうエヴァは必要ない、だからさよなら。一つの時代を定義した今作をどう受けとるかは人次第ですが、自分はこんな風に受けとりました。
やっぱりこういう映画がいいんですよ。売れるかどうかも大事でしょうけど、それ以上に強く訴えたいから作る作品。創作というのは結局そうあるべきなんだなと再確認できた素晴らしい作品でした。もう何回か見に行かなきゃ。
ではでは。
シン・エヴァの先にあるシン・ウルトラマンが楽しみで仕方ない!
あ、ネタバレ要素を多分に含むため見てない人はブラバ推奨です。
というわけで、無事見事に完結しました。してしまいました。
正直、見る前はかなりヒヤヒヤしていました。ええ。どう決着つけるのか想像も出来なかったので。
個人的な着眼点をまとめてみましたが、あくまで自己解釈の牽強付会。個々人に解釈は委ねられるべき作品だと思っていますのでこんな考え方もあるんだね程度に。
1 生きるということ
旧劇において精神崩壊したアスカで自慰するシーンがありました。アスカやレイはシンジ、ひいては視聴者の露悪的なオモチャだと言わんばかりの描写で、特に神秘的で口数の少ないレイと違って生身でむき出しの感情をぶつけるアスカで自慰するというのは酷く示唆的です。
性=嫌なものと言わんばかりの潔癖な描写は無機質で不気味で、結末としてシンジとアスカが真っ赤な世界に投げ出されて互いを拒絶しあったのも宜なるかな、と言ったところです。
ですが、今回は性を間接的に描写しながらも、それが生命礼賛に繋がっていると感じました。
旧シリーズから度々描写されているトウジとヒカリの関係は大きく進んで子供も生まれ、ケンスケとアスカは大きく距離を縮めて(ゲームではケンスケがアスカを気にしている描写もあったんでしたっけ?)それとなく肉体関係にあるようなセリフも。二人がどうなったのか気が気でならなかったので生きててよかったと劇場では胸を撫で下ろしましたとも。ミサトさんは加持さんと子供を作り、自分の意思で離れた場所で暮らしています。
そして何より決定的だったのは、アヤナミレイ(仮称)こと黒波さんの無垢な姿。オタマジャクシの泳ぐ田んぼで稲を植え、泥んこになって畑作業に勤しみ、トウジとヒカリの子のツバメと触れあう。赤子のような彼女が本当の意味で生まれ、自分の意思で命と向き合い、別れの意味を知ってなおヒカリに『さよなら(=自分の運命を受け入れた上でまた会えると信じている)』を告げたことはゲンドウの歩む道とは違ったものをシンジに見せ、前に踏み出す契機を与えたのでしょう。
2 ゲンドウとユイと
壮大な物語の契機となったのは相変わらずのゲンドウの画策でした。旧作では冷徹で利己的だった彼の歩んできた道が示唆されましたが、今作ではそれを赤裸々に語ります。エヴァでの格闘シーンも露骨なフィクション的に描写され、行き着く先は精神の世界。旧劇では捕食という形でしか寂寞と苦痛と思慕を表現できなかったシンジは、しかし周囲から注がれる感情でゲンドウを越えていくことを決意出来ました。だからこそゲンドウ『から』ATフィールドが生じ、シンジとの接触を拒んだ。
ですが結局、ゲンドウはシンジを抱き締めることを選びます。シンジのなかにいるユイこそがユイの生きた証―目的のために邁進し、ユイにまつわるもの全てを捨てて遠ざけた息子こそがユイだった皮肉とそれを受け入れて救われるゲンドウ。ゲームではサードインパクト阻止ルーとのひとつとしてゲンドウとシンジの和解が描かれていましたが、そこにたどり着くことができればあの親子はあっさり仲良くなれていたのでしょう。似た者同士ですしね。
13号機が初号機を抱擁するために四本の腕を伸ばして槍を贖罪として受け入れたのは、彼にとってありふれた幸福にたどり着いたということなのでしょう。
3 アスカ
旧作から度々報われない思いを重ねてきたアスカですが、14年間の感傷は察するに余りあります。
エヴァの呪いで老いることもなく、使徒に侵食されて命を絶えず脅かされ、そしてバックボーンすら式波シリーズとして親の愛を知らずに育った…。Qでは言葉こそきついもののある種信頼の裏返しともとれる態度(序盤で助けを求めた、13号機に乗ったシンジにキレる=DSSチョーカーによる死のリスクを理解していないから)ですし、自分を殺すくらいなら死んだ方がマシとまで言いきった相手に対してなんとも思わないほど薄情ではないです。
ただ、それでももう一緒にはいられない。14年間で老成せざるを得なかった彼女と14年眠っていたシンジとでは最早内面を共有することは叶わない。愛に飢えたアスカにとってかつてのシンジは自分を日常に引き戻してくれる相手であったとしても、時間は戻らない。
だから好きだったと過去形で打ち明け、シンジもそれを受け入れます。完全に理解することはできなくても受け入れる、大人びたシンジに砂浜でバカと呟く彼女は旧劇とは対照的でした。
4 エヴァを捨てて現実へと近づく
第3新東京市の模型のなかでの格闘、ミサトさんの家での格闘と蹴り出されて壊れてしまった特撮セット、別れの度に降りるシャッター、そして綾波レイに別れを告げるときの空虚さを滲ませた片付けられた撮影舞台。
個人的には、THE・ビッグオーの2ndシーズンを思い出します。パラダイムシティという舞台セットの中で喜劇を演じ、時折メモリーという名の現実を思い返す。ビッグオーではヒロインでありパラダイムシティを観測する存在だったエンジェルを役者ロジャーが交渉で説得し、劇を続行する形で締め括られました。
しかしエヴァは、エヴァを捨てる度に現実へと近づき、そして絵コンテのような画像から迎えに来たマリと再会を果たしたあとどこか懐かしい駅の中にたどり着きます。
それが4thインパクトを乗り越えた彼らなのか、それとも全く別の世界なのか分かりません。ただ、エヴァという虚構を捨てた先にあるのは彼らにとって紛うことなき現実です。
演じられた存在として、この世を演出する存在との交渉を成功させネゴシエーターの矜持を貫いたロジャーと、大人になることで世界と向き合えたシンジ。あるべきところにたどり着いた安堵感がありました。
5 シンジとマリ
マリの正体は度々示唆されてはいましたが、明言はされませんでした。それは明確にルーツが示されたレイやアスカとは対照的。勿論掘り下げることは可能だったはずで、考えるべきは作劇としてなぜ敢えて彼女を掘り下げなかったのか?という点です。
その答えは最後のシーン詰まっていると考えています。
最後に彼女の手を引いたシンジは最初は人と関わることができない臆病な少年でした。ヤマアラシのジレンマのたとえはまさに彼の他人とのかかわり方を示すもので、エヴァという毛布にくるまって、あるいは『エヴァパイロットという無条件に他社に認めさせる資格』をどこかで盾にしていた。トウジとケンスケにしてもそうで、初めて構築した人間関係はエヴァに依存したもの。その友達の輪は決して大きくはならなかった。それは新旧共通していました。エヴァに乗ること=母親抱擁される居心地のいい空間は、使徒の恐怖を和らげるだけでなく現実から体よく逃げることも可能にしたのです。
だからこそエヴァを失った旧作ではテレビ版では一方的に、空虚さを感じるほど祝福されながらも現実ではアスカの首を絞めて盛大に拒絶され、Qではエヴァで世界を救うことに固執した結果親友との別れをもたらします。
ですが、シンエヴァで突きつけられた現実は無慈悲でも暖かく、彼がエヴァに乗らなくてもいい幸せを示してくれた。はからずも破のレイの願いは叶えられつつあったのです。
そしてゲンドウとの対話を通じて大人になった彼にとって、他人はATフィールドで拒絶する対象でもエヴァを介してしか繋がれない存在でもなくなった。エヴァを卒業する彼が隣にいることを望んだ相手は、エヴァに乗っている間に関係を構築したレイやアスカではなくエヴァから降りた後に向き合ってくれたマリでした。形式的な終わりではなく、シンジは本当の意味でエヴァを必要としなくなった。だからエヴァを介してしか他人と繋がれないといったレイやエヴァで他人に認めてもらうことが原動力のアスカと結ばれることはないんです、(個人的にはレイ派なので残念ですが)。そして最後、プラットホームの向こう側のレイ、アスカ、カヲルを振り切りアグレッシブなマリの手を引いて駆け出すことができたんでしょう。
だからマリについての詳しいバックボーンを解説する必要はないんです。別に親しい友人や家族についてだって、あらゆるところの本音や過去を一つになって共有したいわけではないでしょう?今隣にいてくれる、手を握ってくれる、握り返してくれる、時々甘えて甘えさせてくれる、そしてそういうことが出来る相手だとお互いが理解している。大人になったシンジにとってはそれで十分前に進めるんです。それ以上は蛇足で、野暮なんです。
6 最後に
25年間で色々あったんだなあ、という感情が込み上げてくる今作でした。本当に。万人に楽しんでもらえるための作品ではないのに、新旧で一貫しているのは生きるということ。
彼らにもうエヴァは必要ない、だからさよなら。一つの時代を定義した今作をどう受けとるかは人次第ですが、自分はこんな風に受けとりました。
やっぱりこういう映画がいいんですよ。売れるかどうかも大事でしょうけど、それ以上に強く訴えたいから作る作品。創作というのは結局そうあるべきなんだなと再確認できた素晴らしい作品でした。もう何回か見に行かなきゃ。
ではでは。
シン・エヴァの先にあるシン・ウルトラマンが楽しみで仕方ない!
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